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北区の歴史を知る

渋沢史料館

北区の渋沢史料館で、渋沢に関する史料や実際に渋沢が賓客をもてなした「青淵文庫」や「晩香廬」を通して、当時の雰囲気を体感しませんか。

展示室入口には渋沢栄一の等身大パネルがお出迎え。渋沢の身長は150cmほど。小さな体で世界中を飛び回る姿は”小さな巨人”そのものでした。

渋沢栄一は明治、大正、昭和にかけて現代日本の経済基盤を作った実業家です。1840年埼玉県深谷市に生まれ、1879年にここ北区飛鳥山に賓客をもてなす別邸(旧渋沢庭園周辺)を建て、晩年には本邸として移り住み、91歳で亡くなるまで過ごしました。

1867年渋沢はパリ万国博博覧会で幕府使節団に参列する将軍名代、徳川昭武に随行の一人として、ヨーロッパ諸国を周ります。渋沢は日本では馴染みのないパンやコーヒーをはじめとしたヨーロッパの食文化を抵抗なく受け入れ、感銘を受けました。

そこで多くの見識を学び、ヨーロッパ歴訪後。留学生活に入った徳川昭武のそばで庶務、会計職務を務めます。その後ヨーロッパの経済や商売の仕組みや経験を生かし、民間の立場で500以上にのぼる会社や銀行の設立に尽力。社会公共事業にも取り組みました。

この史料館の常設展では9つのテーマに沿って渋沢栄一の足跡をたどることができる史料をはじめ講演での音声レコードや愛用の懐中時計なども展示されています。

渋沢史料館の関連施設として晩香廬(ばんこうろ)青淵文庫(せいえんぶんこ)という渋沢が諸外国の要人の接待にも利用した施設があり、どちらも国の重要文化財に指定されています。

 

 

 

 

渋沢が幼少期影響を受けたものは「論語」。東京大学や早稲田大学など現在でもある大学をはじめとした多くの教育事業にも携わりました。

旧渋沢庭園と晩香廬、青淵文庫は渋沢が慕われたあかし

 

1879年、飛鳥山に別邸を構えた渋沢はその後増改築を行い、日本館、西洋館、茶室、文庫などを建設。1945年の空襲によりほとんどが焼失しましたが、晩香廬(ばんこうろ)青淵文庫(せいえんぶんこ)は現存しておりどちらも重要文化財に指定されています。

晩香廬、青淵文庫は共に渋沢への”お祝い”として贈られたもので、建物の随所に溢れるこだわりは渋沢が多くの人に慕われていたことが見てとれます。

青淵文庫(せいえんぶんこ)

 

青淵文庫は現在の公益財団法人渋沢栄一記念財団の前身、竜門社が渋沢栄一が傘寿(80歳)と子爵に昇格したお祝いとして贈ったもので閲覧室(写真下)の窓にはステンドグラスがあります。ステンドグラスは渋沢家の家紋をモチーフにしたもので「壽」の飾り文字があり、シャンデリアには唐草模様をあしらっています。この閲覧室の絨毯の下に隠れているフローリングは木と木を合わせた寄木細工のような模様になっており見えないところも美しい建物になっています。

 

 

施工:1925年

設計:中村・田辺建築事務所

国指定重要文化財

 

※参照

Discovery Sheet「青淵文庫にときめく!」

館内で無料配布しています

晩香廬(ばんこうろ)

 

晩香盧は渋沢の喜寿(77歳)のお祝いで現在の清水建設に当たる清水組から贈呈された洋風茶屋で危機を迎えた同社に渋沢が支援、アドバイスをし、相談役になって見守り続けてくれた感謝から贈られました。晩香盧の名前の由来は渋沢自作の漢詩「題晩香盧壁」からきており、多くの賓客の接待、接客の場として利用しました。

 

落成:1917年

設計:田辺淳吉

国指定重要文化財

 

※参照

Discovery Sheet「晩香盧にときめく!」

館内で無料配布しています

 

 

 

 

”グランド・オールド・マン(偉大な老紳士)”と呼ばれた渋沢の葬儀では多くの人々が沿道に集まりました。史料館には渋沢が遺した遺言書や当時の写真なども展示しています。皆さんもぜひ足を運んでみてはいかがでしょうか。


渋沢史料館

住所   東京都北区西ヶ原2-16-1

開館時間 10:00~17:00(入館16:30まで)

休館日  月

入館料  一般300円、小中高100円

     団体20名以上 一般240円、小中高80円

TEL   03-3910-0005

アクセス 東京メトロ南北線西ヶ原駅より徒歩7分

     JR王子駅南口より徒歩5分

オフィシャルサイト https://www.shibusawa.or.jp

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